『あらゆることは今起こる』柴崎友香 著(医学書院 シリーズ「ケアをひらく」)
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■濱口竜介監督が映画化した『寝ても覚めても』の原作者で、芥川賞作家の柴崎友香さんは、47歳で ADHD の診断を受け初めてコンサータを内服した後の様子をこう語りました。
「小学校6年生の修学旅行で夜更かしして翌日眠たくて、それ以来1回も目が覚めた感じがしなかったんですが、今、36年ぶりに目が覚めてます」と。
医学書院の名物編集者白石正明さんが編纂した「シリーズ ケアをひらく」には、医学書の範疇に収まらない不思議な本が多く、中でも ASD当事者でドイツ文学を研究する京都府立大学准教授 横道誠氏の『みんな水の中』には驚きました。専門家の解説書とは全く異なり、ASD当事者の感じるこの世界が鮮やかに瑞々しく言語化されていたからです。
横道氏は ASD 自助グループをいくつも立ち上げ、症状の異なる仲間たちと当事者研究を行う中で『発達障害の子の勉強・学校・心のケア』(大和書房)では、親子で当事者研究をやってその子にぴったり合った方法を独自開発することを提唱しています。
柴崎友香さんは横道誠氏が「ASDの人の自伝的な本は何冊も出ているけれど、ADHDの人のそれはあまり見かけない」と書いているのを読み、だったら自分で書いてみようと思い立って医学書院の白石さんに連絡。そして書き下ろされたのが『あらゆることは今起こる』なのです。
白石氏は「発達障害の人は、地続きだからこそ理解されない。定型発達者が私にもあるあるで終わってしまう。『量の違い』が、当事者にとっては大変な違いで、その生きづらさをわかってもらえないことが問題の核心。文筆の人である柴崎友香さんには、その体験世界をできるだけ正確に、なおかつ魅力的に書いてほしかった 」と言います。
実際たいへん面白くて読みやすく、新たな発見が多々ある本でした。ADHD に関して間違って認識していた事柄も多く反省させられました。柴崎さんは物静かで落ち着いた方で多動ではありません。ただ頭の中は常に複数の考えがランダムに流れ続け、外から刺激があるとさらに次々に思い浮かんで、頭の中が多動で混線し、ぼーっとなって逆に動けなくなってしまうのだそうです。
コンサータが作家の創作活動に悪影響を及ぼすことも懸念されましたが、それはないようです。(もう少し続く)
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■上記は『長野県小児科医会会報79号』に投稿した文章です。スペースが限られていたので一番言いたかったことまで書けませんでした。
■横道誠氏は ADHD を伴う ASD という診断を受けましたが、柴崎友香さんは ASD要素も多少ある ADHD という診断なのだそうです。二人似ているところもあるし、またぜんぜん違う感じもする。発達障害と言っても、ひとりひとり全く違って複雑で、教科書どおりの人って一人もいないということがよく分かります。
それから「文章のプロ」が書いた本は読んでいて内容がすっと入ってきます。例えば29ページ。喘息発作で夜中一人起きていて、気が付くと夜明けになって、市営住宅9階の部屋から外を眺める場面が美しくとても印象深い。
とはいえ、ぼくは今まで柴崎友香さんの小説を一冊も読んだことがなかった。ただ、作家の保坂和志氏が柴崎友香さんのことを熱烈にプッシュしていたことは知っていました。
保坂和志氏がプッシュして世に出た作家さんに山下澄人さんがいます。山下澄人さんの小説は僕も大好きで、デビュー作『緑のさる』からずっと読んでいて、やはり保坂氏が世に出した磯崎憲一郎さんも『日本蒙昧前史』で初めて読んで驚いたのでした。
それなら柴崎友香さんも読んでみなきゃと、最近ちくま文庫から出た『百年と一日』を手に取ったのです。
たまげました! これは傑作だ。こんな不思議な短編集は読んだことがありません。
超短編の中で、語り手が変わり、時間が経過し、場所も変化するのです。読み終わった読者は、何時しかここではない何処か遠くの知らない国、知らない時代に連れ去られて、ただただぼーっとなってしまうのです。
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■そういえば、山下澄人さんの『緑のさる』『コルバトントリ』も視点や時間、場所がくるくる変わって目まぐるしい変な小説であったなあ。
柴崎友香さんのデビュー作『きょうのできごと』(河出文庫)の解説を、保坂和志氏が書いていると聞いて、今日伊那の平安堂へ行って買ってきました。なるほど、さすが保坂さん。実にスルドイ解析が行われています。
「ジャームッシュ以降の作家」と題されたこの解説で、彼女の小説を「不思議な緻密さによって小説が運動している、その緻密ぶりが面白い」と評して、217ページで細かく解説してくれるのですが、正直なんとなくしか分からないです。終盤の部分を引用します。
つまり、未来はもうかつて信じられていたみたいな”特別”なものではない。それを私たちはよく知っている。だから、『ストレンジャー〜』を境にして、フィクションの時間はもう未来に向かって真っ直ぐ進まなくなってしまった。(中略)未来には希望も絶望もないけれど、今はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことができるのではないか。もしそれが未来に向かったとしても、過去やいま横にあることと等価なものとしての未来だろう。(p220〜221)
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■『あらゆることは今起こる』柴崎友香(医学書院)の第4章「世界は豊で濃密だ」では、保坂氏が指摘した彼女の「小説の作り方」の秘密が垣間見えてとても興味深いです。
227ページにはこう書かれています。
「時間軸」と書いてしまうとやはりそこには目盛りが発生してしまうし、堅いしっかりした一本のものというイメージになるので、今、ここにいる私が生きて感じとっている時間とは違っていく。(中略)
中国人が書いた「八岐の園」から引用している文章がある(この、何重にも引用されているところこそ、私にとっての小説という形式の根源に思える)。
「あらゆることは人間にとって、まさしく、まさしくいま起こるのだ、と考えた。数十世紀の時間があろうと、事件が起こるのは現在だけである。空に、陸に、海に、無数の人間の時間があふれているけれども、現実に起こることはいっさい、このわたしの身に起こるのだ……。」
この「無数の人間の時間」は、独立して並行しているのではなく、「このわたしの身」に含まれている。
229ページには、クロスロードで悪魔に「たましい」を売った引き換えに、素晴らしいギター奏法を手に入れたという都市伝説がある、ブルース・シンガー ロバート・ジョンソンの話も出てきて興味は尽きないです。
本のタイトル『あらゆることは今起こる』のことをずっと考えていて「あ、そうか!」と判ったことがあります。
以前読んだ『哲学者とオオカミ』マーク・ローランズ著、今泉みね子訳(白水社)の終盤に書かれていたことです。人間には「時間の矢」があるが、オオカミは瞬間瞬間を生きる。「いまここ」を生きているのだ。柴崎さんは、オオカミ的な時間感覚の中に生きている。そういうことなんじゃないでしょうか?
■追伸:この本の感想を読んでいて、あまり指摘する人はいませんが、「本の左下」に横断歩道を渡る人々の連続写真(最初は横から後半は縦に移動していく)が載っていて、パラパラ漫画みたいで楽しいです。
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