『ゴーイングマイホーム』第10話(最終回)

■ゴンチチの『ゴーイングマイホーム』サウンドトラックが、iTunes で発売になった。でも、2,000円かぁ。曲数は多いのだが、収録時間は短いんだよなぁ。だから、試聴だけでも大方聴けてしまったりするのだ。


う〜む、でも欲しいぞ! 聴きたいぞ! というワケで思い切って購入することに決めたのだが、なんか、パスワードが違うって言われてしまった。困ったな。


■ところで、『ゴーイングマイホーム』の最終回は実はリアルタイムで見ることができなかったのだ。火曜日の夜は、天竜町の「青龍」で「北原こどもクリニック」の忘年会だったからね。一次会だけで終わったのに、思いのほか盛り上がって家に帰ったら夜10時半をとうに過ぎていた。


で、ラストの10分間だけオンタイムで見たのだが、バーミックスを使った、カリフラワーと長ネギとジャガイモのスープ。仕上げに生クリームをかけて出来上がり。山口智子が「めしあがれ!」と言って、差し出したトレイに乗ったスープの美味しそうなことと言ったら!

一切れ浮かんだニンジンが「クーナの帽子」の形をしていて、そこに槇原敬之の『四葉のクローバー』が流れてエンド・ロールが始まったものだから、オイオイと次から次へと涙が止めどなく流れて来たのだった。
このドラマに、ずっと付き合ってこれて、ほんと、幸せだったなぁ。しみじみそう思ったよ。


■で、さっき録画を2回見終わったところなんだが、今にして思えば、この最終回が言いたいがための(1〜9話)だったんだなぁ。
第9話で、阿部寛が仕掛けたワナにかかったクーナ?を、ざるを押さえながら阿部寛が左手に触れたような感じのシーンが強調されていた。なんか、不自然だったんだ。

それから、夏八木勲が大きな口をあけて「大イビキ」で寝ているシーンも第9話にあったな。まるで、死期間近のチェイン・ストークス呼吸だった。


■そうして、阿部寛が通夜の夜にふと父親の棺を開けて、また口を開けてしまっている父親の口を閉じようと顎を「左手」で触った瞬間、すっかり忘れていた幼い頃の記憶が甦るのだ。このシーンで泣いた。阿部寛といっしょに泣いた。


是枝監督は、やっぱり小津安二郎を意識しているよね。父親の家でほとんどのシーンが撮られたこの最終話では、日本家屋の「ふすま」が実に上手く使われていたよ。あと、実家の玄関のドアが開いて閉まり、萌江ちゃんもまた、庭のフェンスの扉を開けて閉めていた。


■それから、このドラマは最初から「不可能なこと」にチャレンジしょうとしていたんじゃないかって思う。

映像では視覚しか刺激されないはずなのに、このドラマを見続けていて僕が刺激されたのは、飯島奈美が喚起した「味覚」であり「嗅覚」であり、クーナの囁きに耳をそばだてる「聴覚」だったりした、で、主人公が死んだ父親の顔のヒゲに触れた「触覚」の驚きを、視聴者も確かに感覚として追体験できた、そういう、視覚以外の人間が持つ感覚にあえて訴えようとしたんじゃないかな。


最終回のドラマは時系列にそって淡々と進む。お通夜、葬儀、火葬。東京では、まだ自宅で葬儀をするのだろうか? 伊那の田舎では、今はほとんど、平安閣か、JAのグレースに、藤沢造花など、それぞれの「葬儀社専用会場」が通夜から葬儀まで一切を仕切って、喪主とその家族はずいぶんと楽になったものだが。

■最近ぼくの礼服は、結婚式で着る機会が圧倒的に少ない。つい先だっても、叔父の葬儀と四十九日法要で着たばかり。ぼくも親戚もみな年をとったということか。


■一人の死者(夏八木勲)に対して、残された人々の頭の中に残る彼のイメージはそれぞれぜんぜん異なる。そういうことも、よくわかるドラマだったな。妻、息子、娘。雪だるまを作って持ってきた大地くんに、西田敏行、そして宮崎あおい。人は死んでも、後に残されたそれぞれの人々の心の中で、生き続けるのだ。

信濃境の駅に降り立ってタクシーを待つ宮崎あおいが、しみじみとした口調で西田敏行にこう言う。

「死んでもいなくなったりしないんだね」

うん、そこが一番大事だと思った。そうさ、死んでもいなくなったりしないんだよ。少なくとも「クーナ」の存在を信じることができる人には、分かってもらえると思う。


「死者」を忘れないこと。いい思い出ばかりじゃなく「後悔」だって、忘れちゃったらできないじゃないか。


「ただいま」
「おかえり」
「めしあがれ」


なんでもない日々の暮らしの中に、じつは「しあわせ」がそっと僕らに寄り添ってくれていたんだね。
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