こんにちは、はじめまして。 誰かのブログにコメントなどあまりしないのですが、読んだばかりの本に色々考えさせられたので検索してこちらにたどりつき、コメントしたくなってしまいました。 「極北」はタイトルに吸い寄せられるように読んだ本ですが、陰惨な内容にもかかわらず読後感は清涼でした。大きな理由は、主人公が女性だったからなのでしょう。 荒廃した世界の「希望」あるいは「救い」を象徴する主人公は女性であるのが必然なような気もします。決して明るい未来の到来を予想させる結末ではなかったのですが。 しかし、現実に「福島」を経験し、さらに人類ばかりか生物世界を破滅させてしまうのに十分すぎる核物質を貯めこんでいる現実を知ってしまうと、この物語に描かれた「その後」の想像世界でさえ、楽天的な未来観と感じてしまうのが悲しいです。 極北の自然にあこがれ、星野道夫さんや植村直己さん、sue harrison の著作などを読む流れで手にした本でしたが、すべてが破滅に向う中、せめてこの小説世界のように、「国敗れて山河あり」であることを祈るものです。 長々とすみません。 「ストーカー」ももう一度見てみたいと思います!
はみんぐばあど さん。コメントありがとうございました。 ぼくも星野道夫氏の写真とエッセイが大好きです。つまりは「北の最果ての荒野」にずっと魅せられてきたのですね。あと、ジョン・クラカワーのノンフィクション『荒野へ』 も、北の荒野(ウィルダネス)アラスカに魅せられた青年のはなしで、これまたすごく好きな本です。 「かつてこれらの河はすべて名前を持っていた。丘だってそうだ。いや、風景の中の模様のようにしか見えないもっと小さなものだって、ひとつひとつ名前をつけられていたかもしれない。かつてここはひとつの場所だったのだ、と私は思った。 祖先たちが苦労を重ねて勝ち得た知識を、私たちはずいぶん派手に浪費してきたのだ。泥の中から僅かずつ積み上げられてきた、すべてのものを。」(『極北』p236) 「フェリックスは尋ねた。このような大きな都市で育ったものはこの中にいるか、と。一人もいなかった。そして私の他には、都市に住んだことのある両親を持つものさえいなかった。それは偶然ではない。電気や清潔な飲料水がなければ、下痢や渇きが毒素よりも素早く都市生活者たちを駆逐してしまうからだ。」(同 p249)より引用。 これらの文章をいま読むと、なんかもの凄くリアルに我が身に響いてくるのです。
こんにちは。お忙しいのにコメントありがとうございました。 「荒野へ」は映画版で見ました。 主人公の青年に純粋に共感するには分別のありすぎる年齢ですが、無謀だとか考えが甘いとか批判するには文明社会への義憤やウィルダネスへの憧れに、理解できる点も多いのです。 印象に残ったのは、彼がムースを撃ち干し肉を作ろうとして失敗したシーンでした。 頭の中で描いていたことと現実とのギャップに初めて遭遇したことで、その後の展開を示唆するものでした。 「極北」の主人公のことを思うと、その違いが歴然としており、むしろその父親のタイプに近い人種のように思われます。 さて先日、NHKで放映された「フローズンプラネット」で、まさしくその極北の民の生活が紹介されておりました。 トナカイに家ごとソリを引かせ移動する遊牧民の姿をお茶の間で目にする不思議さに、また小説「極北」の世界が頭に浮かんできたのは当然のことでした。 星野さんがいつも言っておられた世界の同時性、多様性の不思議さがこのまま持続することを願ってやみません。
コメント:『極北』マーセル・セロー・著、村上春樹・訳(中央公論新社)
こんにちは、はじめまして。
誰かのブログにコメントなどあまりしないのですが、読んだばかりの本に色々考えさせられたので検索してこちらにたどりつき、コメントしたくなってしまいました。
「極北」はタイトルに吸い寄せられるように読んだ本ですが、陰惨な内容にもかかわらず読後感は清涼でした。大きな理由は、主人公が女性だったからなのでしょう。
荒廃した世界の「希望」あるいは「救い」を象徴する主人公は女性であるのが必然なような気もします。決して明るい未来の到来を予想させる結末ではなかったのですが。
しかし、現実に「福島」を経験し、さらに人類ばかりか生物世界を破滅させてしまうのに十分すぎる核物質を貯めこんでいる現実を知ってしまうと、この物語に描かれた「その後」の想像世界でさえ、楽天的な未来観と感じてしまうのが悲しいです。
極北の自然にあこがれ、星野道夫さんや植村直己さん、sue harrison
の著作などを読む流れで手にした本でしたが、すべてが破滅に向う中、せめてこの小説世界のように、「国敗れて山河あり」であることを祈るものです。
長々とすみません。
「ストーカー」ももう一度見てみたいと思います!
はみんぐばあど さん。コメントありがとうございました。
ぼくも星野道夫氏の写真とエッセイが大好きです。つまりは「北の最果ての荒野」にずっと魅せられてきたのですね。あと、ジョン・クラカワーのノンフィクション『荒野へ』 も、北の荒野(ウィルダネス)アラスカに魅せられた青年のはなしで、これまたすごく好きな本です。
「かつてこれらの河はすべて名前を持っていた。丘だってそうだ。いや、風景の中の模様のようにしか見えないもっと小さなものだって、ひとつひとつ名前をつけられていたかもしれない。かつてここはひとつの場所だったのだ、と私は思った。
祖先たちが苦労を重ねて勝ち得た知識を、私たちはずいぶん派手に浪費してきたのだ。泥の中から僅かずつ積み上げられてきた、すべてのものを。」(『極北』p236)
「フェリックスは尋ねた。このような大きな都市で育ったものはこの中にいるか、と。一人もいなかった。そして私の他には、都市に住んだことのある両親を持つものさえいなかった。それは偶然ではない。電気や清潔な飲料水がなければ、下痢や渇きが毒素よりも素早く都市生活者たちを駆逐してしまうからだ。」(同 p249)より引用。
これらの文章をいま読むと、なんかもの凄くリアルに我が身に響いてくるのです。
こんにちは。お忙しいのにコメントありがとうございました。
「荒野へ」は映画版で見ました。
主人公の青年に純粋に共感するには分別のありすぎる年齢ですが、無謀だとか考えが甘いとか批判するには文明社会への義憤やウィルダネスへの憧れに、理解できる点も多いのです。
印象に残ったのは、彼がムースを撃ち干し肉を作ろうとして失敗したシーンでした。
頭の中で描いていたことと現実とのギャップに初めて遭遇したことで、その後の展開を示唆するものでした。
「極北」の主人公のことを思うと、その違いが歴然としており、むしろその父親のタイプに近い人種のように思われます。
さて先日、NHKで放映された「フローズンプラネット」で、まさしくその極北の民の生活が紹介されておりました。
トナカイに家ごとソリを引かせ移動する遊牧民の姿をお茶の間で目にする不思議さに、また小説「極北」の世界が頭に浮かんできたのは当然のことでした。
星野さんがいつも言っておられた世界の同時性、多様性の不思議さがこのまま持続することを願ってやみません。